小さなころから読書の習慣がない私は、成人してから本を読むようになった。というか、「読むようにした」というのが正しい。読書を始めた理由は、義務教育期間を終えてからその重要性に気づいたからだ。国語、算数、理科、社会、図工、体育、道徳、家庭科、今思えばどれもこれも無駄なものはなく、思考の幅を広げるものばかりだと感じる。
意識して読書するようになった頃、本を開けば読めない漢字ばかりで愕然とした。当時はまだスマホでググるなどという時短方法はなく、国語辞典や漢和辞典、インターネットで漢字検索するような感じでその都度調べていた。自分が惨めでたまらなかった記憶がある。悔しかったので、読めない漢字に出会う度に、一字一字調べていた。今考えると「そこまでしなくても、、、」と思うほど、むきになって調べていた。
今は自分が好きで本を読んでいるので、趣味のうちの一つとして幸せな時間となっている。そして、今日、不意に漢字に対する感じ方が変わった気がするので、文章にして客観視してみようと思った。
まず、『読めない漢字』を調べる方法として自分にとって大きな変化があったのは、『Kindle』で読書するようになった時だ。指先でなぞるだけで、すぐわかってしまう。最初は便利過ぎてちょっと後ろめたい気分になったほどだ。そして読み方を忘れてしまったとしても、何度でも指先でなぞればそのうち覚えてしまう。問題は、『紙の本』を読む時だ。仕方ないのでスマホで調べたり、手書き漢字のサイトで読み方の正体をあぶり出していくわけだが、次から次へと読めない漢字が出てくると、やはり諦めそうになる。例えば、今読んでいるのは、原田マハさんの『たゆたえども沈まず』なのだが、物語の舞台はフランスのパリなので、読めない漢字もあるし、地名や景色の描写を読んでも自分の頭の中でイメージできない場面が多い。どうにかしてそいつらを臨場感をもって自分の脳内に投影したいと思うので、漢字を調べるだけでは飽き足らず、ググって現地の画像を検索したり、登場人物と風景をChatGPTで生成したりしてみる。パリを歩いたことがなくても、歩いたことがあるように脳に錯覚させることはできるのではないか?なんて考えながら。実際は経験に勝るものはないとわかっていても、やる価値はあると思うから。
死ぬまでにパリに旅行に行って、「やっぱホンモノは違うな~」なんて言ってみたい。
でもこういう姿勢が自分のパースペクティブ(認識の領域)を拡張していくことになるのだ!森岡毅さん風に表現すると。
「ああ、人生楽しんでいるな」と自分で思う。
で、話を元に戻す。紙の本で読めない漢字が出てきたときに、熟語だったら漢字一文字ずつの意味をつなぎ合わせて想像したり、いまいちよくわからない言い回しが出てきたら、前後の文章の内容からイメージを膨らませてみたりして楽しむことができる。だって、間違えていたとしても誰にも迷惑はかけないだろうし、ビジネス書とか実用的な類の本だとそうもいかないけど、小説だったら逆に良いのではないだろうか。自分の中に既にあるものを工夫して置換していくような読み方?
DeNAの南場智子さんが「ビジネス書はほとんど読まない」「小説を読むことが多い」というのを聞いて、ビジネスであろうとアートであろうと、結局は本人の認識の仕方で読んだものが単なる説明書になったり、長編映画になったり、聖書になったり、般若心経になったり、マーケティング本になったり。人間の知力は無限なのだと思う。
単なる高卒の私が、こんなことを考えるようになったのはなぜなんだろう。
あらゆるものに感謝したくなる毎日だ。
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