人生において、家族や仕事で接する人たちとのコミュニケーションに向き合う場合、自分に余裕がなかったり、相手に余裕がなかったりすると、つい、白か黒かつけてお互いに譲れない気持ちになってしまう。お互いが同時期に心の余裕がなかったりすると、けっこう辛い時間が続くことになる。私の場合、息子たちが小学校を卒業するまで妻が専業主婦として頑張ってくれていたのだが、その頃は営業職で日々売り上げノルマに追われていて、家庭では心が常にガサガサしていて余裕がなかった。(未成熟でした)しかし、家庭の外ではなぜか心も安定していて、仕事に集中できていたと思う。専業主婦をしていた妻は積極的に学校の行事の運営や地域の人たちとうまくコミュニケーションしていたと思う。こちらから見ると楽しそうに見えたものの、実際は大変なこともあったのだと思う。
その頃の私は休日と言えばギターの練習に時間を使いたい思いが強く、ほぼ一日部屋に籠ってしまうようなありさまだった。妻からすればもっと子供たちの活動に付き添ったりして欲しいと思っていただろうし、おそらくそういうことも言われていたはずだ。
と、このように妻から言われていた言葉の記憶が曖昧になっているのは、私にとって家庭の重要度が低かったという証拠だ。おそらく、妻は色々と私に対する父親としての行動を要求していたのだと思う。私に残っている記憶は、妻から日々、口うるさく何か言われていたことしかない。その時の自分が思っていたのは「仕事で頑張ることで精いっぱいなのに、なぜ家でまでいちいち良い人でいなきゃならないんだ」という未熟な考えだった。何か伝えられていたというより、批判されていたという記憶だけが残っている。そのせいか、単身赴任になったときに心がすごく穏やかになったのを記憶している。
当時の反省を踏まえて、ここ数年、夫婦としての共感を復活させようと思い、妻と会話しようと試みているが、今度は妻の心に余裕がない。息子たちが中学に入ったころからアルバイトを始め、高校へ入る頃には契約社員として働くようになっていた。来年は、息子たちも大学3年と1年になるので、妻も大変であるだけに、話し合いの機会を設けようと思っても「いまさらめんどくさい」の一言である。大変な時に話を聞いもらえなかったという記憶が強いため、ある時期から、私の存在自体を【無】にしたそうだ。だから、「今さら、過去をなかったことのようにして普通に接しようなんて許せない」という。これは【女性あるある】なのだろうが、私からすると人を許せないなんて不幸じゃないかと思うのだが。妻には息子たちがいれば、私はもういらないようだ。確かに、世の中そうなるのは仕方ない。男から種と金さえ奪えれば、存在は別にいなくても平気なのだろう。
それが何だか切なくて、うまくコミュニケーションできないものかと、会話をしてみよと思うのだが、今は妻の方が仕事でいっぱいいっぱいの頃の私のようになっているようで、まったく聞く耳をもってもらえない。例えば、妻も息子たちも誰かが風邪をひくと3人そろって風邪をひく。これは、食生活が原因だということがわかっている。だから、「もう少し小麦製品の割合を減らして、もう少し咀嚼回数を多く、ゆっくり時間をかけて食べたらいいんだよ」と優しく説明するのだが、直接反論はしないものの、「うるさいから黙ってろ」という態度丸見えである。証拠に、次の日の食卓の上のかごには菓子パンがこんもりと盛られているのだ。
まあ、同じ家に住んでいながら自炊してしまう私もどうなのか?と思うけど。
そう考えていると、正しいか正しくないかでコミュニケーションを取ろうとするのは間違っているし、何の価値も生まないのではないかと感じる。しかし、【諦める】というのも間違っていると思う。だから、白か黒かはっきりさせようとする【二分的思考】から離れて、共感することにフォーカスすれば楽になるのではないかと思うようにしている。
自分が不満を感じるように、妻もまた不満を感じているのだ。相手も自分も全く同じ。自分が苦しければ、相手も苦しいと思う。そうすれば優しい気持ちがガサガサとした心を包み込んでくれるようになる。
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