ASDの特徴の中に自分とあてはまるものがいくつかる。その中でもとりわけ苦しんでいるものが、物事の配分や切り替えが弱い部分だ。何でここが弱いのかと自分で考えてみると、時間感覚が弱いのだと思う。何か始めると疲れにも気づかずに過集中してしまう。
20歳前後の頃、大好きなギターを職業にしたかった私は、毎日10時間以上ギターの練習をしていたが、何の苦も無かった。体力的にも一日寝ればすぐ回復するような年齢だったので、自分では凄い才能だと誇らしかった。しかし、何年たっても自分に自信が持てず、結局諦めてしまった。もう、この時からすでにASDであったのだと思う。もし、自分のことをもう少し俯瞰して見たり、感じたりすることができていたら、最短期間でギターを職業にできていたのではないかと思うし、(実際は、ギター講師やバンドスコア作成などで収入はあったが、音楽だけで生活はできていなかったので諦めた)ほかの選択肢も考えられたのではないかと思う。
その後、結婚して子供が生まれて家庭を持つようになり、29歳で初めて会社員というものになった。初めてお給料をいただいたときは、「何て有難いことなんだろう」と思った半面、「毎月、同じ額が口座に振り込まれるなんて、会社員は甘ったれているな」と腹立たしかった記憶がある。少し上から目線で会社員を見ていたのだ。
そこからちょうど20年経った今、自分がASDではないかと自覚するようになり、これまでどれほど周囲の人たちに迷惑をかけてきたのだろうと後悔する日々だ。しかし、一番苦労したのは、妻かもしれない。浮気や不倫もせず、暴力も振るったこともないが、私の存在は5年ほど前から彼女の中から消されている。私に対しての感情は、もう何もないのだそうだ。【無】というのが、一番近い言葉らしい。この現実を、長い間、理不尽としか思えなかったが最近よくわかるようになってきた。気付いた時点でカウンセリングなどを二人で受けに行ければ良かったが、時はすでに遅かった。もし自分が妻の立場だったら「仕方ない、チャンスをやるか」とするが、もう遅いらしい。理由なんてない、ダメなものはダメなのだ。
理由は色々だろうが、夫婦同士の信頼関係はなくても離婚はしないままの夫婦もいるらしいが、私はそれが辛くて悔しくて「もう一回、家庭を持って自分をやり直したいから離婚してください」と妻にお願いした。新たな家庭を持てるような年齢ではないのは重々承知だが、死ぬまでに誰かを幸せにした実感が欲しいし、死ぬ間際に誰かに心から感謝の意を伝えてから死にたいと思うのは高望みなのだろうか。(この辺の感覚もやっぱり少し変なんだろうなと想像する。世の大半の意見なら、「いくら自分が惨めでも悔しくても黙って夫と父親の役を演じ続けるべきだ」ということなのだろう。だから既婚者同士のマッチングアプリがあるのだと思う。割り切れるのが羨ましい。)
夫婦仲がおかしくなりだした頃は、妻の方に非があるなんて思っていたけど、間違っていたのは自分の方だと今は思う。まあこれも人によって受け取り方が違うのだろうけど、自分を責めている方が私としては楽だ。身近な人に対する憎しみや不満は、結局、全部自分のところへ帰ってくる。
世には夫婦関係や人間関係についての良書がたくさんあるのに、いざ読む気になった時はかなり深刻な状態だったりする。頭の良い人は結婚する前に想像力でこういったことをイメージできるのだろうけど、私には無理でした。だから息子二人にはそういったことのないように、結婚するという報告を受けたら、結婚生活の心構えを失敗談を交えて話そうと思う。余計なお世話だろうけど。
黒川伊保子さんの『妻のトリセツ』を面白おかしく読めるうちは、まだまだ大丈夫だろう。https://amzn.to/4gCiuSA
そして、その黒川さんが「解説」を書いている、岡田尊さんの『夫婦という病』が必要になる頃は、おそらく最後のチャンスではないだろうか。https://amzn.to/4eyjNAd
やり直せるのなら私の分もぜひ頑張ってほしい。
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